堤 剛 – 第五章

第五章 恵まれて

⑮ “パーティーをそんなにしない学校だと、それから熊は出ないよってことで、是非行くよって!“

– 先生がインディアナの後、1968年~1984年まで16年間いらした西オンタリオ大学にいらっしゃったきっかけが、ヴァイオリンのギンゴールド先生からのご紹介と伺っていますが、その経緯をお教えいただけますか?

はい、私はインディアナ大学卒業時(1965年)にいわゆるアーティスト・ディプロマというのを頂いて、アーティスト・イン・レジデンスになっていたんですが、ビザの関係で学業終了後2年以上はアメリカには残れないっていうことで、(1967年当時)どっか行かなきゃいけないと、だからまあカナダか、日本に戻るか、そういう状況だったのですね。

でまあ、堤が何か探しているということで、たまたまギンゴールド先生がカナダ・オンタリオ州のロンドンにある大学に行かれたら、そこで先生の昔の生徒さんがヴァイオリンを教えられていて、スケルトン(ROBERT SKELTON)さんと言う方なのですが、スケルトンさんから、実はうちも大きくしたいので専任のチェリスト(それまではずっとパートタイムと言うか、非常勤の方だけだったので)を探している。もちろんトロントとかモントリオールにはすごい有名な学校があるけれども、うちとしてもなんとか “on the map” になりたいのでその専任を探している、どなたかいませんか?ということで。

それはじゃあ、堤というのが今いてね、なんかシュタルケルの助手もやっているし、まあ教えるのもなんとかできるじゃあないの、ってことで。

私、シュタルケル先生がいらっしゃらない時は先生のスタジオで下見をしたり色々していたので、たまたまそこにトントントンって、ギンゴールド先生がいらして、(以下、ギンゴールド先生の声色で)

”Tsuyoshi, I just came back from LONDON、Ontario.”

 “ああそうですか。Was it cold?”

”Ahhh, It’s a very nice place. Ahhh, actually the school there is looking for a cello teacher, if you are interested I can talk to them.”  

“ああ、そうですか、私、どこかも分からないから・・”

と言ったら、

”I can tell you that the people there are very serious, they don’t make too many parties, so you can practice as much as you want.” 

 

ああそうかぁ、それは悪くないなぁ、と、

でそれまでカナダには一度すごく北の方には行ったことがあるのですね。

とってもアメリカ寄り(friendly country)だと、まあアメリカに近い所ですから、ただどんな所なのか全然わからないので、じゃあ

”What kind of place is that?”って、

”Well, don’t worry. There’re NO BEARS there.” って言うわけ。(大笑)

熊は出ないよって、ああそう、じゃあ行ってみるか、って言うことでこの二つだったんです。

パーティーをそんなにしない学校だと、それから熊は出ないよって、ことで、

是非行くよって。

まあずっとそこで教えてたんですけれど。(笑)

⑯ “ヤーノシュ”なんて・・・僕自身はとても先生にねぇ、ちょっと言えなかった“

₋ 1988年から2006年まで18年間、またブルーミントンに先生として戻られましたね。その間のお話をお聞かせいただけますか?

まあそれまでは本当にお偉い先生方だったのが、急になんか同僚みたいになっちゃって。それこそポール・ビス(Paul Biss)とか ミリアム・フリード(Miriam Fried)とか、私の当時の学生仲間も先生になっている人が結構いまして、そういう人たちは結構ねえ、シュタルケル先生に対しても“ヤーノシュ”なんて言っていたわけ。先生はそれで悪い顔はされなかったけど、まあアメリカは普通だからそれが、でも僕自身はとてもその先生にねぇ、ちょっと言えなかった、それが。

たとえギンゴールド先生に対しても“Hi! Joe”とかね、とても言えない。(笑)

₋ ああ、それは言えないですよね。

最後まで私はそれは言えなかったなあ。

でも本当にそのまあ先生というかね、そういう立場に立たせていただいて、まあいろんな意味でアメリカの社会全体をこう広く学ぶことができたかなあ、とは思っています。

₋ その間、ご家族はどのようにされていたのですか?

私の二人の子供はブルーミントンで小学校、中学校、高校と入学したんです 。ですから彼らは本当にその正統というか、いわゆるアメリカ生活を実地で体験していまして、大学街ですから教育環境もよくて、まあそれはすごく幸いでしたね。

₋ じゃあもう文化的にはお子様方はアメリカの価値観ですか?ご家庭はもちろん日本人だけど

結構ねえ、やっぱりアメリカ人的考え方は絶対ありますね。そうですね、特に息子なんかは友達が多かったせいもあるのですけれども、英語も結構ミッドウェスト(Midwest)の English なんですよね。そうすると逆にすごく向こうの人がアットホームに思ってくれる、それはすごく大きいですよね。

また私がびっくりしたのは、大学では強制的にアメリカの健康保険に入らされるわけですけれども、私どもの長男が生まれた時、全部でかかった費用が本当に50ドルだけだったんです。あと全部が保険、これはすごいなと思いましたよね。なかなかそういう意味でも恵まれました。

– そして奥様はご家庭を維持されながら学校に行かれて

はい、そうですね。お陰様で家内はPh.D.まで取得しまして。まあ家内は修士まで日本で終わっていましたので、本当に博士過程しか行かなかったのですけど 、でもそれがアメリカのいいところなのかな、数年かかったと思うけど、何年かかっても少しずつとっていけばいい、というところで、そういう面からもいい経験をさせて頂きました。

でも本当にあの音楽学部は特にそうだったのかもしれないけど、すごくインターナショナルな雰囲気が強くて。

ですから自分が日本人であるからどうかとか、そういう気に全然させられなかったですね。学生の頃からも、いわゆる変な目には会ったことはないし、そういう意味では恵まれていたなぁ、と思いますね。

ああ、でもそう、教授時代、あの練木先生も教授としていらしたので、一方で日本人の教授が同じ学部にもいたっていうのは、やっぱりすごくやり易い面もありましたね 。

練木さんはもうずっと先生でしたからね、IUの先生としては僕より長いですから。

– 日本人でジェイコブスの教授をされたというのはお二人ですか?

いやいや、あの同じ時、実はもう一人、歌の先生がいらっしゃいました。

オペラの先生でいらっしゃったのですが、その頃専任になられて。

確か助教授になられていたと思うのですが・・・、ちょっとお名前が出て来ません。

あのいわゆるラウンド・ビルディングに入った1Fのすぐ左側の、内側の左側のところで教えられていたのですが。

 

(注:IU同窓会では、この方がどなたか知りたいと思っております。もしご存じの方は、お教えください)