私自身もそれまでは本当に子供の頃からチェロをやっておりましたし、桐朋学園は専門の音楽高校でしたので、総合大学の中に音楽学部があること自体私にとっては目からウロコだったのです。インディアナもそれこそジュリアードとかカーティスみたいな感じかな、と思ったら全然そうではなくて…。
私がブルーミントンに行って(1961年)最初にお会いしたのが、当時Undergraduate study担当のAssistant to the Deanと言って、ディーンの補佐をされMusic Theory担当の ウィーノルド(Allen Winold)さんでした。まずウィーノルドさんに言われたことは、
「インディアナ大学音楽学部の教育方針は、もちろん音楽家として演奏家として素晴らしい人を育てるというのも大事だけども、インディアナ大学の基本方針は全人教育だ。」
良い演奏をするためにもちろんすごく練習するのですけれども、それだけではダメで、
「本当に人間として、音楽家として成長してほしいということをインディアナ大学は強調しているんだよ」、と言われまして、
ああそうか、それまで本当に私の色んな考え方が全て音楽中心というぐらいであったことに気付かされて、まずそれがひとつの大きな学びでした。
いろんな意味でディーン・ベインという方がすごい功績のあった方なのですが、何しろ当時インディアナ大学の音楽学部はほとんど知られていなかった。ベインさんがディーン(学部長)になられ、すごく進取の気風をもって、それを何とかしようとされたんですね。
シュタルケル先生も「いろんな意味ですごく音楽学部が伸びているから、そういう意味でもいいんじゃないか」ということをやはりおっしゃってくださっていました。
– 音楽学部の特徴と全米の中でも評価が高くなった訳を教えてください。
そのディーン・ベインという方は、ウィルフレッド・コーンウェル・ベイン(Wilfred Conwell Bain)とおっしゃって、ケベック州出身のカナダ人でした。アメリカで勉強され、最初はテキサスにいらして、テキサスの大学のディーンをされていらした。で当時、プレジデント・ウェルズがすごく音楽とか芸術とかそういうことに力を入れていたのですが、
₋ そうらしいですね。
いわゆるヒューマニティーですよね。 やっぱり音楽学部を大きくしたいと。そこでなんとかベインさんをということでテキサスから引き抜いて、もうディーン・ベインの好きなようにやらせたんです。
そこでディーン・ベインがすごく頭のいい人で、どうしたらいわゆるコーンフィールドのど真ん中にあるような音楽学部を世界的なものにするか、ということをいろいろやって。
結局ディーン・ベインは“ブルーミントンのこの学校の特色を大きく打ち出すには、やっぱり Opera だと、もうこれしかない!” というような、全くそんな感じで変えられていったんですね。(笑)
その彼が偉いなぁと思うのは、例えば、ジンカ・ミラノフ(Zinka Milanov)とかメトロポリタンのスターで、いわゆるトップクラスのプリマドンナで歌っていたような方で、やっぱり声がね、もう出なくと言うか、舞台に立てなくなって、あとは余生を送るという時に、良い待遇でブルーミントンに来ていただいて、しかも住んでいただいて、このようにオペラを育てた。そういう着眼点がすごく良くて。
今やもう本当にあそこのオペラっていうのはすごい、ということになっていますけれども、何しろ私がびっくりしたのは、ご存知のように、本当に毎週末オペラのパフォーマンスがあって。それで今やヨーロッパやアメリカ中の歌劇場で IU の卒業生が歌っていますけど、ディーン・ベインがそういう学校にしちゃったんですよ。だからそれもすごくて。
もちろん同時に、シュタルケル(チェロ)とかギンゴールド(Josef Gingold:ヴァイオリン)とかグッリ(Franco Gulli:ヴァイオリン)とか、プレスラ-(Menahem Pressler:ピアノ)とかシェボック(ピアノ)とか大変な先生方がいらしたけれども、音楽の中でも幅広い学校だったのですよね。当時、バ-クシャー・カルテッド(Berkshire Quartet)というレジデント・カルテットがあって、その頃からブルーミントンというのは室内楽も素晴らしかった。そのバ-クシャー・カルテッドが毎日午前中は練習していたりとか。しかもジャズも素晴らしいですし。デイヴィッド・ベイカー(David Baker)というチェリストなんですけれども、本当にビバップ(Bebop)の教授では世界一ぐらいの方もいらしたし。そういうディーン・ベインがやろうとしたことを、プレジデント・ウェルズは全部バックアップしたんですね。
- シュタルケル先生はヨーロッパの戦乱でアメリカに亡命されてきたのですよね。シュタルケル先生もひっぱっていらした?
そうそう、シュタルケル先生もディーン・ベインが引っ張ってこられたんです。いやそれでね、シュタルケル先生はハンガリーから亡命されたわけですよね、共産国になってしまうので。当時先生はずっとパリにいらして、そこで非常に苦労されたらしいのですが。で、後で知ったんですけれども、そのパリにいらした頃に既にベインさんに会っていて、
”もしお前がアメリカに来るような気があるのだったら一筆くれ、何とかしてやる”、というような話があって、その当時からベインさんは既にシュタルケル先生に目をつけていたらしいんですね。
そんなわけで、アメリカで最初シュタルケル先生はベインさんのいたテキサスのダラス交響楽団の首席でいらした。それでダラスから今度は彼はメトロポリタン・オペラの首席になられた。そして同じハンガリー出身の指揮者、フリッツ・ライナー(Fritz Reiner)に呼ばれてシカゴ交響楽団に行かれた。それでも自分はやっぱり教えることにもすごく興味があるし、オーケストラでやりながらソロ活動をしたけれども、自分としては自分の演奏と教えるというのは車の両輪みたいなものだから、そういうことができる所へ行きたい、というのと、それが今度はインディアナにディーンで来られたベインさんから、じゃあいくらでも好きなようにやっていいから、と言うということでブルーミントンにいらした、まあそう言う経緯なんですね。ですから、それも私が行くほんの2-3年前だったので、その頃にギンゴールド先生も、彼はクリーブランドのコンサートマスターだったし、そういう人たちを呼んだりね。
それからディーン・ベインのすごく頭がいいところは、もちろんご存知のように州立大学ですから州から予算が下りてくるわけですね。やはり州の議員さんたちに説明しないといけないわけです、もうこれほど素晴らしいと。 でも、音楽が素晴らしいからとか 、自分がこういうことがやりたいからとか、では判らない人には判らないと。でもこの人達に判り易いのは数字だと。ですから彼が何をやったか、もうご存知だろうけど、例えば、私のリサイタルでも、そこに今年何回目のリサイタル、というのが書いてあるわけです。それが全体で千何百とかすごい数になるわけです。そうするとそういうことは議員さん判るわけ、 おお、すごいなあ!って、それで予算がわりかし付いたのね。
それから当時は冷戦時代で、そのある意味で核の問題がありましたよね。ひょっとしたらソ連からミサイルが飛んでくるんじゃないか、ということで。私が行った当時はもうあの丸い教育棟のビルは出来ていたんだけれども、ご存知のようにあれほとんど窓がないのですよね 。でなぜ窓がないのが出来たかと言うと、音楽学部の教育棟を作ると言ってもなかなか予算が出ない。だから彼はどういう風に申請したかと言うと“Bomb Shelter” だって,Bomb Shelterを作るって、ですから地下2階まであるのだけど上の方には窓がないわけ 。
₋ あっ、そうなんですか・・・・
そうなんです。そういうやり方でなかなか上手に予算を持ってこられて、本当にディーン・ベインという方はすごい人だと思いますし、本当に頑張ったなあと思います。
それに私自身のことでも結構色んなこともありましてね、私は留学の3年目からシュタルケル先生のティーチング・アシスタントになったのですけれども、私のフルブライト奨学金自体は1年でしたから、後はそのようにアシスタントシップという形で学校から奨学金を頂くことをすぐ認めてくださって。それで卒業後の2年間は私いわゆるアーティスト・イン・レジデンスのポジションを頂いたのですが、それもディーン・ベインのおかげなんです。ですからもう私もベインさんに大変お世話になったのです。、
₋ 先生も1963年にはヨーロッパやあちこちで、 半分ぐらいは演奏で回っていらしたのでしょう?
そういうのもやっぱり逆にね、もちろん勉強はしなきゃいけないのだけども、一つは学校の宣伝にもなるしということもあって、結構エンカレッジされたということはありますね。