堤 剛 – 第四章

第四章 "えっ!? そういうこと!"

⑬ “周りを見ても誰もやっていないわけ、本当にね、まっ裸なんですよ!”

₋ 1961年の留学当初、堤先生は丁度19歳になられたばかりですよね。初めてブルーミントンに行かれて、カルチャーショックだったこととか、ございましたか?

私最初、メンズ・レジデンスセンターという所に入って、いわゆるルームメイトがいたのだけれども、それこそインディアナの田舎から来たような、何にも日本のことを知らない!まあ日本のこと教えないしね。 だから、日本にちゃんと自動車はあるのか?とかね、いやあ、もうそういうところから説明しなければならなかったりとか。(笑)

それからね、今でも忘れないのですけれども、びっくりしたのはトイレにドアがないんですよね。

そう、日本じゃちょっと考えられなかった、それも一つショックでしたし 。

₋ あーあ、そうでしたね!僕らの時もなかったでしたね (笑)

それから私いわゆる学部で行ったものですから、1年生の時は体育を取らされるわけ。ところが私、英語がよくできなかったこともありまして、自分がこういうのを取りたいなんていうのは、とてもどういう風にチョイスをしたらいいかとか、そういうのも分からないので、一番余ったところに送らされちゃって。まあそういうこともあって一学期目はコンディショニングとか言ってエキスパンダーやったりとかね、そんなことをやったりとか。(笑)(注:体操のような運動)

それから二学期目には、その頃はちょっと英語も出来てきたので、じゃあ水泳、をやろうと。特にあの頃の IU の水泳ってのはすごかったんです。ジャストレムスキー(Chet Jastremski)とかね。

₋ オリンピックですよね。

そうそう、もうオリンピック。それでね、その僕は本当にね、湘南に育ちながら殆ど泳げなかったわけ。だから、ああこういう所で水泳が出来るようになったらちょうどいいなってことで、水泳取ったの。で、まあクラスを取れば教科書使いますよね。だから水泳だったら水泳パンツ使いますよね。持って行っていなかったから、ユニオン(The Indiana Memorial Union:注 売店がある)のあそこ行ったわけ。そしたら水泳パンツなんて売っていないの。「あれー?これ教材のはずなのに売ってないなんて、変だなあ~」と思ってね。でもまあレジスター(Register:授業の履修登録)したんですよね。それで色々聞いてもね 、このカードを持ってあそこのフィールド・ハウス(体育館)に行きなさい、ってだけ言われて。で、あそこのフィールド・ハウスに行って聞いたんですよ、「あの、僕実は水泳のパンツがないのだけれども」って。でも、誰もなんにも言ってくれないわけ。ただそのうち、ロッカーだけはもらえたのね。だからまあ仕方なく自分のロッカーに行って、周りを見ると・・・・、

誰もやっていないわけ、水泳パンツ!

本当にね、裸なんですよ!まっ裸! 本当。

あの今はどうか知らないけどね ・・。

₋ 一同大笑い 

いやーあれは本当にね、ちょっとびっくりしましたねぇ。

それでね、実はあの頃、今あるかどうか知らないけど 10th Streetのもっと上にロッツイーといって Reserve Officers’ Training Corps という空軍の予備学生用の施設があって(注:Indiana University Air Force Reserve Officer Training Corps (ROTC))そこの空軍の人たちが50-60人といたかな、その人達も同じクラスを取っていて、その人達もやっぱり真っ裸で取るわけ、もちろん泳ぐだけでなくて、レクチャーなんてあるの。こんなような階段席にみんなずらーっと裸で座ってね。

これはもうねえ、日本の銭湯どころの騒ぎではない!あれはでも凄かったですねぇ。(大笑)

まあ、先生だけはしていいんですよねぇ。 

実はそのね、本当に今では大笑いなんだけれども、あるとき日本の水泳連盟から訪ねてきたの、偉い人たちが何人か、IUの水泳はすごいって。で、先生がね、

 ”Tsutsumi, there are people from Japan Swimming Association、 say Hi to them! ”っていうわけ。

えっ!?

でも僕、真っ裸なわけで・・・、日本人ですよ!

ちょっとねぇ・・・

だからしょうがないから、プールの中から、

 “Hi !こんにちは” って!

これはもう忘れられないですよー!!向こうもびっくりしたんじゃないかと思うんだけれども。

プールの中から、まっ裸で日本水泳連盟の人たちに挨拶する堤青年
– プールの中から挨拶されたわけですね? 

そうそう、ちょっとねぇ・・・

出て挨拶する気には、ちょっとなれなかったぁ。(大笑)

いやー、でも日本から視察に来るなんて、こういう素晴らしいことがあるとはねえ。

ほんとでもねぇ、忘れられないですよ。はい、本当あれにはちょっと・・・。

これも衛生的な面なんですよね。それで、そのうちその光景には慣れてきましたけれども。(笑)

₋ 女の人の場合はどうだったのですか? 

あっ、女の人はね、借りなきゃいけなかった、女の人は着けて良かったんだけど、自分のはだめだった。借りなければいけなかった。

₋ なるほど、衛生上なんですね。

何しろあそこのブックストアに行って 、水泳パンツがなかったって言うのは、ちょっとびっくりだったな。

いやーでも本当に随分変わりましたよね。(笑)

₋ 留学時代、学校以外の生活はいかがでしたか? 

⑭  “澤さん、家野さんにはすごくお世話になって“

そうですね、当時もう他学部には結構日本人の留学生もいらして、ご家族で来られている方が多かったですね。IU

は、プレジデント・ウェルズのご尽力でロシア学部も有名ですよね。

₋ そうですねウラル・アルタイ研究が有名ですね 

そうそう、なので外務省から留学をされている方がいらしたりして。そういう素晴らしい学部がいくつかあったということもあって本当にいろんな分野の方がいらしていて。ですからまあ日本人達で集まることも結構あって、特にビジネススクールの方が多かったように思うんですけれども。そういうことから全然違う分野の方とお会いして、ごはんを一緒に食べたりとか、そういうのもすごくいい経験になりました。

また先にもちょっと触れましたけれども、澤(澤 裕子、Hiroko Sawa Primrose)さんは、当時ヴァイオリンのラザン(Albert Lazan)という先生に就かれ、ずっとすごく頑張られていらっしゃいました。後にプリムローズ(William Primrose)夫人になられましたが、彼女には本当すごくお世話になりました。(注:William PrimroseはIUのヴィオラの教授)

それからご存知のように、家野(家野 宰輔)さんと言う 、多分練木先生(練木繁夫:ピアノ)を除いて IU に一番長い日本人ではないかと思いますけど、には本当にお世話になりました。なにしろ私が最初に行った頃にはもういらしたんです。であの方は当時アルバイトで、いわゆるレジストレーション用の写真を撮ったり、そういうことをやっていらっしゃった。それで暫くして彼はご結婚なさって。でも最初、奥様がシカゴで働いていらしたんですが、そのうちブルーミントンに戻っていらして、あそこの音楽学部の近くのユニバーシティ・アパートメントにずっと住んでいらした。私は家野さんには、よくご飯を食べさせていただいて、もう本当にお世話になりまして。(笑)

で彼はそのうちニューヨーク州のオスウェゴ(Oswego)という所に行かれたんですね、そこにも私は何回かお邪魔しました。でまあ日本に帰って来られたわけですけれど。

₋ 家野さんは4-5年前まで、同窓会にいつもいらしていただいて 

そう、そうですよね。

でも本当にそういう方々がいらして、私は、本当にいろんな方にお世話になったなあと思います。

IU留学当時の堤先生、右が澤裕子さん。水曜日は正装の日だったそう。澤さんのご自宅の前で。